第29回学習会の報告
日時 2019年2月23日(土)
タイトル 「オウム処刑と死刑制度を考える」
講師 森達也さん
連合会館の2階に72名に参加者が集まった。以下森さんの講演をまとめる。
オウム死刑囚の人たちが1カ月の間に13人処刑されたとき、大量処刑だと多くの人が反発したことに、違和感を持った。同じ事件で死刑判決が出たならば、処刑のタイミングに誤差があってはならない。問題視するなら、裁判の段階でなぜこれほど安易に死刑判決を下すのか、異を唱えるべきだった。13人の中には、殺害に関わっていない人もいる。普通ならば死刑判決はあり得ない。つまりオウム判決は、あまりにも偏向していた。
とりわけ麻原彰晃については、一審判決公判を傍聴したが、完全に心身喪失状態だったと思う。自分の意思はほとんどない。大小便は垂れ流しで、オムツをあてがわれていた。被告席で彼は同じ行動を反復し続けた。 拘禁反応の典型的な現れです。
ところが、メディアは、こんな状態の麻原を目撃しながら、「現状逃避」などと報道する。せめて、精神鑑定をすべきだと自分は主張した。拘禁反応は環境を変えることで、劇的に回復する。弁護士の依頼で接見した精神科たちは6人すべて治療の必要性を訴えたが、裁判所は聞き入れないまま、麻原死刑は確定した。一審だけです。戦後最大級の犯罪と言われながら、その首謀者の裁判は、二審も三審もない。しかも彼は法廷では、意味あることをほとんど口にしてない。
オウム裁判によって、社会は何が変わったか?オウムは社会を見るフイルターで、麻原裁判はその結実点だと思う。世論の前でメディアは何もできずに、多くの人の不安と恐怖を煽った。不特定多数の殺傷事件がいつ起こるか分からないと言う雰囲気を作り出した。邪悪・凶暴という言葉が新聞などで報道され、社会は、善か悪かの二元化で見られるようになった。その結果、セキュリティ社会の強化が起った。監視カメラは街角に置かれ、駅のごみ箱は透明化され、駅の椅子は仕切りが取り付けられ、不審者情報は人々を駆け巡り、危機管理のコマーシャルは増大した。厳罰化がポピュリズムになった。
ところが日本の殺人事件の傾向を見ると、一昨年の認知件数は895件で戦後最小です。1954 年は3081件あった。人口比で4分の一に減少しているにもかかわらず、いかに危ないか、いかに怖い社会かをメディアは煽る。市場原理むき出しにメディアは動く。始めは国内の犯罪者にむくが、それは近隣の国にも向かう。そして構造化されていく。アメリカは911がきっかけで、6年前の日本と同じセクリティ状況にはまり込んだ、だからこそ敵の存在を強調する。ブッシュ政権は支持率を上げ、正義か悪かという選択を迫り、多くの人が殺された。厳罰化はテロを理由にした世界的傾向である。
北欧は違う。かつてノルウエーの刑事司法を取材した。受刑者の部屋はCDも聞け、ゲームもでき、たばこも吸うことができ、受刑者たちはキッチンも自由に利用できる。刑務所でひどい扱いを受ければ、社会に戻ってもひどいことをする。そうならないようにノルウエーの刑務所はなっている。またオスロから南に行った島全体が刑務所になっているところもある。子どもの頃、十分な教育を受けることができなかった受刑者に教育を提供する。部屋に鍵もなく、パソコンも使え、身の回りの自立ができるような仕組みになっている。助け合う、社交性を付ける、ルールを守るという三点が重要視されている。幼年期の対応、教育、貧困などかけているものをどう補うかという視点である。ノルウエーは終身刑も死刑もない。
死刑とは何かを考えさせられる。昔から日本には悪いことをしたら、命で償わせるという思想がある。太平洋戦争、文化大革命、ポルポト政権などでやってきたことから教訓にすべきである。それを今のメディアは拒否している。治安悪化しているから、死刑を執行するという構図は、社会の抑止力にはなっていない。オーストラリアの学生が「人を殺してはいけないということを教えるために、なぜ人を殺すのか?」という疑問が出されたが、この疑問に答えることができなかった。国連から日本へ死刑制度廃止の勧告が来ているが、日本政府は拒否している。先進国の中で残っているのは、アメリカと日本だけである。命を持って犯罪を償うべきだという考えも、生かして償うべきという考えも両方違うと思う。償うことはできない、取り返しはつかないという点に立ったうえで、何ができるかを考えるべきだと思う。日本はポピュリズムが強い。自分たちもメディアであり、構造を作っているという点を考え、自分たちも発信できると考えていきたい。